昭恵の言葉の全文テキスト

百万円の授受があったあの日、安倍昭恵が語った言葉を全文公開します。

安倍首相の「瑞穂の国記念小学院へかける期待」や「安倍晋三記念小学校という名前への感想」など、これまでの国会答弁とは一味もふた味も違う解釈が語られています。

PDFで長いですが、いかにこれまでの安倍首相及び政府の国会答弁と安倍昭恵本人の認識が相違するか比較する材料としてご活用ください。

PDFはこちら 安倍昭恵講演会フルテキスト

以下、html版です

第一部

■主人もここの教育方針は素晴らしいと思っている。『安倍晋三記念小学校』の名前は総理を辞めてからにしてほしい

ご紹介を頂きました、安倍晋三の家内の安倍昭恵でございます。今日は、お招きを頂きまして有難うございました。籠池園長、副園長の本当に、熱い熱い思いを何度も聞かせて頂いて、この「瑞穂の国記念小学院」に何か私もお役に立てればいいなぁと言うふうに思っておりました

実は昨日、あのぉ主人は「ミヤネ屋」という番組と「そこまで言って委員会」というのを、そちらは収録ですけれども、そのために大阪に来ておりました。まぁ時間があればですね、ぜひこちらにも寄らせて頂きたいというふうに言っていたんですけれど、残念ながらトンボ返りですぐ東京に戻りましたけれども、こちらの教育方針が大変、主人も素晴らしいというふうに思っていて、先生からは『安倍晋三記念小学校』に、という名前にしたいというふうに当初は言って頂いていたんですけれども、主人が『総理大臣というのは、いつもいつも良いわけではなくて、時には批判に晒されることもある』と、『その時に、自分の学校の名前が「安倍晋三」という名前が付いていると、もしかすると、色んなところからその名前によっていじめにあったりすることがあるかもしれないし、色んなことで学校側も「なんで今この名前を付けたのか?」というふうに責められるかもしれないので、もしお名前を付けて頂けるのであれば、総理大臣を辞めてからにして頂きたい』ということで、そして、それをご理解頂いて籠池園長が「瑞穂の国記念小学院」という本当に素晴らしいお名前を付けられました。

■「素読」することで「言霊」が身体にしみわたる

皆様方のお子様方は、ここの幼稚園に通われているのかもしれませんし、またそうでなくて新たに「この学校に子供を入れたい」というふうに思われていらっしゃるのかもしれませんけれども、今、私は、何度もこの幼稚園に来させて頂いてますけれども、園児たちが「大学」をあれだけ暗唱しているというのは、本当にビックリしました。私は、前回主人が、総理をやっている2006年~2007年の間も色んな福祉施設等を回らせて頂いていたんですけれども、その中で、福岡県にある知心学舎(ちしんがくしゃ)という、不登校であったり、まぁニートであったり、社会になかなか適合出来ないような若い人たちを受け入れて、そこで生活をしながら、また社会に戻して行く、学校に戻して行くという施設があって、そこに行かせて頂いたことがあったんですけれども。

そこで毎日取り入れていたのが、この「素読(そどく)」だったんですね。で、大きな声で、「大学」だけではない、色んな論語だったり色んなものを読む。で、そのことによって、それまで学校に行けなかった自信がなかった、仕事も出来なかった若者たちが、どんどんその、自分の芯というものを確立して、そして、また社会に戻って行く、学校に行けるようになる、仕事が出来るようになる。私は一体、この、素読というのは何なんだろうなぁと、その時思って、確実にその、意味が分かっていてもいなくても、それを声に出して、姿勢を整えて、言葉にするということがですね、人間の細胞のひとつひとつにきっと、何か染み渡っていくんだろうなと。

その、日本語は「言霊(ことだま)」だというふうに私は思っていて、私が話しは上手ではないんですけれども、なるべくこの、ひとつひとつの言葉に思いを込めたいというふうに思って、いつもお話をさせて頂いているんですけれども。その、言霊がですね、本当に、身体中にこう、行き渡って、そしてその一人の人間を作り上げていくんだろう、それが自信になっていくんだろうな、というふうに、その知心学舎に行った時に思いました。

■幼稚園で培った「芯」が公立学校で揺らぐのは残念。小学院で太くしていくことが大事

そして、その後、そこの施設をやっていた方と一緒に、素読の会を初めまして、「すずらん会」という名前なんですけれど、あちこちで素読を勧めています。しかし、こんなに小さな子たちが、あんな暗唱を出来るというのは、私はここに来て初めて見ました。いつも、私たちがやっているのは、ちゃんとその、論語の本があって、それを大きい声で、まぁ大人であっても読むんですね。子供たちと一緒にやることもありますけど、皆で読むんですけども、こんなふうに子供たちが、それも先程のご説明で、強制されるのではなくて、自ら「覚えたい」と思って覚える。一体、何なんだろうなぁと。やればきっと、どんな子供でも出来るんだろう。これを全国に本当に広めて行くと、日本人としてこう、芯の整った子供たちというのが沢山育つんじゃないかな、と思いました。

この幼稚園でやっていることが、本当に素晴らしいんですけれども、それが、この幼稚園で終わってしまう。ここから普通の公立の学校に行くと、普通の公立の学校の教育を受ける。せっかく、ここで芯が出来たものが、また、その学校に入った途端にこう、揺らいでしまうということが先生(※籠池氏の方を指し示し)は凄く残念がっておられたので、ここで培ったものを、瑞穂の国記念小学院に入って、またさらにその芯を、こう、出来たものを太く太くして行くということが、きっと大事なんだろうというふうに思います。

■主人も私も、天命・使命をいただいている

私は、今、ここでこうして話させて頂いていますけれども、自分自身はもう本当に一生懸命に勉強してきたタイプでもなくてですね、偉そうに教育を語れるとは全く思っていませんが、まぁたまたまですね、安倍晋三と出会って結婚して、主人が一度総理をし、そしてまた、二度目も、あり得ないと言われていた二度目の総理大臣もした、ということで主人自身も大きな天命を頂き、そして私もなにか使命を頂いているんだろうなというふうに思っているので、こうして「話をして下さい」と言われて頼まれた時にはですね、何かひとつでも自分の経験からでも皆様方に、お伝えすることが出来ればいいなというふうに思ってお受けしているところです。

■挨拶、姿勢など学校での躾は大事

私はずうっと、幼稚園の時からエスカレーターの学校に言っていたんですけれども、割りと厳しい学校でした。その頃はあまり、そういう躾が厳しかったりすることっていうのは好きではなかったんですが、「人の話をきちんと聴きなさい」「座っている時には動いてはいけない」「手を組む時には左手を上にしなさい」など、すごく細かいこと、あとお辞儀の仕方でもですね、もう毎日のように「いち・に・さん・し・・・」という、お辞儀の仕方を学校の先生から習いましたし、「廊下はおしゃべりをしないで片側を歩きなさい」「友達同士、列で並んで歩いてはいけません」とか、まぁ色んなことを言われました。「お友達にももちろん優しくしなくていけない」。

その頃はですね、なんとなくこう、させられていたという感じがあったんですけれども、でも、今になってみるとですね、そういう子供の頃に習っていたことというのは、なんとなく身に付いているのかなぁというふうに思っていて、やはり子供の時の教育というのは、もちろん、親の教育も大事ですけれども、学校で習うこと、先生から習うこと。その中で躾をされることというのは、一生残って行く、大切なことなんだろうなぁというふうに思って、今はその頃嫌いだった先生もいますけれども(笑)、感謝をしているようなところです。

■「安倍晋三」という人間と結婚したことで、素敵な人生を送らせてもらっている

私は、ちょっと教育(の話)からは外れますけれども、主人と結婚したのが今から28年前でした。その頃は、私はお勤めをしてたんですけれども、そこで勤めている会社の上司のような人と、主人の友人が、二人を引き合わせようということで出会いました。まだまだ結婚する気もなくて、会社でしばらく働いていたいなぁというふうに思っていたので、最初、その、「お見合いしませんか?」と言われた時には、お断りをしたんですけれども。

でも、何回か、「すごくいい人だから、会うだけ会ってみませんか?」というふうに言われて、そして、主人と出会いました。あ、あの、まぁお食事をしました。本当にあの、いい人だったんですね。でも、あの、結婚するつもりはまだまだ全然なかったので、そのままにしていたんですが、何回か食事に誘ってくれたりするうちに、お付き合いが始まって、そして二年半ぐらい経って結婚しました。

私はまさかその、政治家の妻になるなんて、本当に子供の頃、若い頃思ってなかったんですけれども、主人はその頃、父の秘書をしていたので、いつかは政治家になる人なんだろうなぁというふうに思って、結婚前に「政治家の奥さんって、大変なんでしょうねぇ?」と言ったら、(主人が)「全然そんなことないよ、誰でも出来るような仕事だから大丈夫、そんな仕事もないし。」というようなことを言われて、結婚して、そして28年間経ちました。

もし、その時に、普通のサラリーマンであったり、また全然違う学校の先生であったり、違う職業の人と結婚していたら、たぶん私の一生は全く違うものになっていたんだろうな、というふうに思いますけれども、たまたま安倍晋三という人に出会って結婚したがために、本当にこのようなあの、す、素敵なというかですね、人生を送らせてもらっていて、大変なことも沢山ありますけれども、でも、主人と結婚しなければ出会えなかった人たちにも沢山会えましたし、また、出来ないことも沢山させてもらって、特別なところにも沢山行かせてもらって、本当に今は感謝をしています。なので、まぁその感謝の気持ちを少しでも返せたらいいなぁ、というふうに思って、あちこちに行かせて頂いているところです。

■第一次安倍政権。1年で辞めたのは主人にとっても私にとっても人生初の挫折

主人は、選挙をですね、もう本当に強い選挙を勝ち抜いて参りまして、一度も落選することなく当選を続けて来ました。小泉さんが辞める時にですね、次の総裁選挙に出ようかどうしようかと、大変悩んでおりましたけれども、でも多くの国民の皆様に「ぜひ、なって下さい」というふうに言われて、そして、総裁選挙に立候補して、総理大臣にならせて頂きました。一年間、もう本当にこの国のために一生懸命、その時は頑張ってたんですけれども、残念ながら、高校生の時から「潰瘍性大腸炎」という病気を患っていまして、総理大臣というのは本当に大変な仕事なのでですね、まぁストレスもあって体調を崩して、最後の最後まで踏ん張ってはいたんですけれども、「これ以上やってはもう迷惑をかける」ということで、辞めることになりました。

辞める時までの、本当に一ヶ月ぐらい、もう綱渡り状態で私も見ているのも辛かったので、辞めると決めた時には妻としては「良かったな」という、心がちょっとホッとするような思いもありましたけれども、主人自身はですね、やりたいことを道半ばで身体のために辞めなくてはいけない、ということでですね、本当に無念で悔しい思いで、多分一杯だったと思います。そんな中で、「途中で総理大臣を投げ出した、無責任な奴である」と言って批判に晒されましてですね、大変、私も悔しい思いもしましたし、辛い時期を過ごしました。初めて、何か挫折というものを主人自身も感じたと思いますし、私もその挫折感を味わいました。こんなに一年間、頑張って頑張って仕事をして来たのに、どうして最後にこんなふうに批判をされなきゃいけないんだろうかと、とても悲しい思いになりました。

■なんで私たちだけがこんな目にあわなきゃいけないのかと思った

そこで、病院で入院している主人と、そこで私も病院に泊まっていたんですけれども、主人のところと、すぐに引っ越しをしなくてはいけない公邸とのですね、行き来する車の中だけが一人になれる時間だったんですね。病院に戻ればまだ総理大臣という立場だったので、周りには秘書官もSPも色んな人達が騒々といて、病院の外にはマスコミが待っていて、誰かが出入りをしないかと狙っている。で、公邸に行けば、友人達がいてくれて、そこで片付けをするという。まぁその間の一人で車を運転する中が、その自分の、時間だったんですけれども、そこで笑っている人達を見るとですね、「なんでこの人達はこんなに笑っているんだろうか?どうして私たちだけがこんな目にあわなきゃいけないんだろうか?」と思って、いつも涙を流していました。

しかし、その瞬間は泣くんですけれども、その後また病院に帰れば、ニコニコとして、まぁ一応主人の前で大丈夫な振りをしていましたけれども、そんな、その時の状況を思い出すとですね、多分精神的にはかなり、参っていたんだろうなぁというふうに思います。

■主人が二回目の総理になったのは神様から大きな使命をいただいたから

でも、人間は、私は、無駄な経験はひとつもないんだろうなというふうに思っていて、その時の経験も今になれば私にとって必要な経験で、そのことがあるからこそ、人に優しくなれたりとか、まぁそういう人の笑顔を見ても、涙が出るような、そういう状況の人たちの気持ちが分かったりとか、なんとなく自分の人間が少し幅広くなったのかな、というような気はしています。

主人自身もですね、その時の経験があって、悔しい思いがあって、その後、なんとしてももう一度たぶん、総理大臣に戻って自分がやりたいと思った憲法改正等々を、もう一度自らの手でやりたいというふうに思って、努力を重ねて来たんだろうな、というふうに思っています。その5年間というのは、主人も本当にあの、毎日のように色々と努力をしていました。座禅に行ったりとか、ランニングをしたりとかですね、また、色んな人に会ったりとか、自分だったらどういうことをしたいかとか書き綴っていたりとか。

でも私は、もう今、主人が二回目の総理であるのは、先程も申しましたけれども、まさしくこれは「天命」である、というふうに思っています。先程、籠池園長とお話をしておりましたら、園長もご病気をされて入院をされておられたと。ちょっとでも発見が遅れたら大変なことになっていたかもしれない中で、私は「生かされたんですね。」とお話を申し上げましたけれども、まさしく主人も病気でありながらも、そうやって生かされて来ている、ということは何か神様から大きな使命を頂いて、「これをやりなさい」ということなんだろうなというふうに思っていますし、私自身もそのような何かかしらのお役を頂いているんだろうなぁというふうに思っています。

■安保法案に反対してデモをしても決して平和にならない

今、安保法案等々でですね、本当に大変な時を、まぁここを乗り切らなくてはいけないという時なんだと思います。私は非常に幅広くですね、思想的に言えばものすごい右の人からものすごく左の人まで、どんな人とでもお付き合いをしたいと思っているので、デモに参加をするようなタイプの人たちとも、実は、普通の生活の中ではお友達だったりとか、親しくお付き合いをしたりとかすることもあるんですね。まぁそういうことがまた何か、あの、週刊誌は書きたいとまた思っているみたいなんですけれども。

でも、今の、私の考えは、こう何が平和にならないのか?というと、色んなものが対立していってしまうことが問題なんだろう、というふうに思っていて。あの、『戦争反対』というのはみんな反対、だと思うんですけれども、それをデモをして、「ハンタイ!ハンタイ!」って言ったからと言って決して平和にはならない、というふうに思っているので、平和にしたいんだったらじゃあ、「どうして、どうやって平和を作っていったら良いのか?」ということをやっぱり、みんなで考えて行かなくてはいけないんだろうと思います。

■安保法案は独立した本当の日本を取り戻すためのもの。「戦争法案」ではない

もちろん、主人は戦争をしようと思ってあの法案を通そうと思っているわけでは絶対ないことは、もちろん皆さんがよく分かって下さっているんじゃないかなというふうに思っているんですけれども、まぁマスコミも、今日はテレビも入っておられますが(笑)、マスコミや一部の方たちはもう「戦争法案」である、というふうに言われて、それを煽り立てて行くことによって若いお母さん達は、「うちの子供を絶対に戦争にやるわけには行かないから、この法案を通してはいけないんだ!」っていうふうに思われます。

その、戦争、本当に戦争法案だったらもちろん反対して頂きたい、というふうに思うんですけれども、これは本当にそんなことではなくて。私はあの、日本という国がですね、やはり戦争に負けて、その後、それまでの日本とはやはり精神性が変わって来てしまっているところがあるのではないかというふうに思っていて。本当の独立した日本を、主人は取り戻したい、「ニッポンを取り戻す」と言っているのは、まぁそういうことなんだろうというふうに思います。

その中で、いかにこの、独立をきちんと、独立国家としてきちんとこう、立ち位置をこう、置いていくかという時にですね、やはりあの、順番にあの色んな段取りがあるんじゃないかな、と。私は難しいことはよく分からないので、ですし、私は選ばれた者ではないので、政治をそんなに語る資格もないと思うんですけれども、主人は、選挙で選ばれていて、そして総理に選ばれていて…。で、国がこういう方向に向かって行く、べきであるという、そういう強いビジョンや信念を持って今政治をしていると思うので、どうか皆様方にはご理解を頂きたいと思います。

■世界のどの国に行っても「日本は素晴らしい」と言われる

主人と一緒に、世界中色んな所に私は行かせてもらっています。どんな国に行ってもですね、日本語を学び、日本の文化を学び、本当に日本を愛している人達が、たっくさん(沢山)います。日本は世界の嫌われ者なのではないかというふうに思っている方たちもいるみたいなんですけど、決してそんなことはなくて、特に途上国の人たちはですね、なんとか日本みたいになりたいと、お手本にしています。勤勉で、そして本当にあの、美しく、美しい国でありますし、何もかもこう整っていて、時間は全て正確だし。こんないい国は、治安はいいし、こんないい国はないと。「え、なんで日本はそんなふうに発展出来たんですか?」と。「日本のようになりたい」、「日本に学びたい」、私は世界中で多くの人達に言われました。

で、「日本の素晴らしさって何なんだろう?」と、その度に思っていますし、一回も日本に来たことがない方たちにですね、「本当に日本って素晴らしい国なんですね、私も行ってみたいです。」と言われると、今、ものすごい大きな憧れをもってこの日本にやってきた人たち、「あ、やっぱり自分が思っていたとおり、いい国だった」って、私たちは胸を張って言えるんだろうか、ちょっと不安にもなります。堂々とですね、日本は、「素晴らしい国なんですよ!」って、ひとりひとりが日本に誇りを持てるような、そんな国づくりをしていかなくてはいけないんだろうなというふうに思います。

■日本が他国より秀でているのは、お掃除の人も勤勉で一生懸命なところ

でも、よその国から見るとまだまだ、やはり日本は『勤勉な国』。あの、皆さんもご存知かと思いますけれども、新幹線のお掃除が今、すごく海外の方からも観光名所になるくらい話題になっていると。で、本当に僅か数分の間にですね、あのお掃除の人達がバァーっと掃いていて、すごい勢いでお掃除をする。あの人達のお帽子だったりとかには、その、時々の桜の季節だったら桜がちょっと添えてあったり、クリスマスだったらクリスマスのリースがあったり、そんなちょっとした配慮もあったり…。そして、ただダラダラっとやるわけではなくて、ものすごくキビキビやって、きちんとみんな整列をして。誰が見ているわけでもないかもしれないけど、お辞儀をして、サァ~っといなくなるという。

で、私がある外国人の友人と話していた時にですね、「日本の素晴らしさの一つは何か?」というのは、彼女は、彼女自身は中国人で非常に日本語が上手な中国人で、だったんですけれども、どんな仕事に就いている人も一生懸命やっている。こんな国は他にはない、というふうに言われました。

私も、確かにそうやって見るとですね、例えば色んな国に行きます。で、アメリカでもそうですけれども、ヨーロッパでもその、一番トップレベルの人たちというのはもしかしたら、日本のトップレベルの人たちよりも高いレベルにいるかもしれない。それはちょっと分からないですけれども、すごい研究をしている人たちとか、すごいビジネスをしている人たちとかっていうのはものすごいレベルにいるのかもしれない。

でも、そこの飛行場に着いた時、その飛行場でお掃除をしている人だったりとか、その荷物の検査をしている人だったりとか、という人たちがどんな態度でいるか?結構みんな、ダラ~っという感じなのですね。もう「やりたくないよ、こんな仕事。」っていうような人たちが沢山います。

でも、日本は決してそうではなくて、飛行機が飛び立って行く時に、こう、下で整備の人たちが手を振っている。それももう本当にこの、素晴らしい手の振り方で、私をそれを見ているだけでとても感動するんですけれども…。

■今までの教育はよかったが、最近は自分のことばかり考える人が増えている

その日本の今まであった教育というのはですね、確かに素晴らしい物であったし、そういうところに活かされているんだろうなあというふうに思いますけれども、でも、残念なのはやはり、自分のことばっかり考えている人がだんだん増えているのかな、という気もします。

■曽野綾子さんとアフリカに行ったのがきっかけで、自分も何かしたいと思う

私は2006年ぐらいからですね、ミャンマーに関わり始めました。関わったキッカケは、曽野綾子先生とアフリカの貧困のツアーに行ったのがキッカケだったんですけれども、子供たちが勉強したくてもなかなか出来ない。

でもその子達は、目を輝かせて、本当に元気に走り回っていました。貧困を見に行ったんですけれども、むしろ、何か私はその、貧しい泥んこになっている子供たちから勇気や元気をもらったような気がして。でも、勉強したくて出来ない子達がこんなに沢山いるという現状を、初めて目の当たりにしてですね、何かお手伝い出来ないかなぁというふうに思いました。

■ミャンマーの子供を支援することにしたのは、親日国で、主人にすすめられたから

で、まぁアフリカは遠いので、ミャンマーにしたんですけれども。なぜミャンマーにしたかというと、まぁ主人が、私が「アジアの子供たちのために何かやりたいんだけれど」という話しをしたら、「ミャンマーがいいんじゃないの?」と言ったので、どこにミャンマーがあるのか全然わからないままに、ミャンマーにしました。

で、主人は初めてミャンマーに行ったのが、父が外務大臣、安倍晋太郎が外務大臣の時だったそうです。1980年代で、まだまだですね、戦後補償の問題、ずっとその、中曽根総理とアジアを歴訪している中でですね、色々な各国からの要求があったらしいんですけれども。最後の国のミャンマーは、全くその、日本側が出した提案をそのまますんなり受け入れて、それ以上のことは言わずに、「もう過去のことは過去のことで、これから手を携えてアジアの未来のため、アジアの平和のために一緒に頑張りましょう。」という話しをされて。そして、日本の軍歌を歌ってくれたそうです。

で、すっかり安倍の父も主人も、ミャンマーファンになりまして。でもその、私がミャンマーに学校を作ろうと思った頃は、日本とミャンマーの関係は国同士としてはですね、あまり良好なものではなかったので、「ぜひ、民間レベルで応援をしてあげて欲しい。」ということで、ミャンマーに支援をすることにしました。

本当に貧しい地域で、寺子屋といってあの、ミャンマーは仏教国なので、お坊さんたちが学校を、自分たちが住んでいる所の一部を学校にして貧しい子供達をそこに集めて勉強を教えているんですけれども、そこの学校を建てることにしました。元々お坊さんがやっている学校に、まぁ、新しい校舎を建ててあげるということにしました。

■ミャンマーに行くたびに、日本の子供は心が豊かなのか、感謝の気持ちがあるのかと思う

何回も行っているんですけれども、ミャンマーの子たちはですね、さっき、園児達があの、大きい声で暗唱をしたように、そのお祈り、仏教のお祈りを延々とこう、私たちに聞かせてくれたりとか。また、お給食を出してあげるんですけれども、給食を食べる前にはですね、やはり長いお祈りをしてものすごく感謝をして、そして、たっっくさん(沢山)食べるんですね。で、普段は給食がありません。でも私たちが行ったりする時には、あるいは何か記念の行事がある時、「今日は結婚記念日だから寺子屋の子供たちに給食を出してあげましょう」、みたいな人たちが沢山近所にいて。そういう何かがあると給食が食べられる。給食といっても日本の給食とは違って、ご飯と、スープの中にちょこっとだけ何かお野菜とお肉がちょっと入っていればいいかな、ぐらいなものではあるんですけれども、でもそれを、ものすごい美味しそうに、いっぱい食べます。こんなにちっちゃい子も、ものすごくいっぱい食べて、そしておかわりをするんですね。

で、それを見ていると、とっても何となく、私は心が暖かくなって…。たまに、あの、日本の小学校や中学校でもお給食を一緒に頂かせていただくことがあるんですけれども、でも子供たちはもう、最初の段階で「あ、これ要らない。」と言ってもう(元の場所に)戻してしまったり…。

すごく、私たちの時代は、「給食は絶対に全部食べなきゃいけない」、「残してはいけない」と言われていたので、私なんか食べるのが当時遅かったので、もうずっと延々と休みの時間まで食べているような時もあったんですけれども。今の子供たちは、まぁアレルギーがあったりとか色々な問題もあるんでしょうけれども、給食を全部たべなくてはいけない、ということは全然なくて、まぁ残したり、嫌いなものはその、(元の場所に)戻してしまったりということを見ているとですね、なにかあの、豊かさって一体何なんだろうなぁというふうに、ミャンマーに行く度に思うんですね。

物が、こう、本当に豊かに溢れている。けれども、心の豊かさが本当に育っているんだろうか?、感謝の気持ちが本当に育って入るんだろうか?というふうに、日本の子供たちを見ていて思うことがあります。ミャンマーのその、貧しい地域には本当に食べるものも、日々なくて大変な思いをしている貧困家庭が沢山あるんですけれども、でも、ちょっとの物をみんなで分け合ったり、いじめもその学校の中では、私が聞いている限りではないですし、親の虐待とかもない。

まぁ、もちろん、貧困のために子供たちが売られるというような、日本にはないようなそうしたあの、悲しい現実があるのも一方では事実なんですけれども、でも、その学校の中ではまぁ、どっちが幸せなのかなぁ、というのを私はいつも考えています。先生を敬い、目上の人を敬い、皆がこう、無いものを分かち合って協力していく。かつての日本では、どこにでもたぶんあったような、まぁそんなものも取り戻していかなくてはいけないのだなというふうに思います。

■戦争中、日本によくしてくれたミャンマー人、戦後その恩返しを続けてきた日本人

私は、たまたま主人から言われてミャンマーに関わったんですけれども、ミャンマーはご承知のとおり戦争の時に、多くの方が、多くの日本兵が亡くなった場所でもあります。三十数万人がビルマに向かって出兵していった、と言われていますけれどもそのうちの、二十万人以上が亡くなっています。

私は色んな所でお話を聴いているんですけれども、ミャンマーの人たちって、だからと言って「日本が嫌い」ということはなくて、もちろんその当時のこと、いろんなことがあったと思いますけど、それでも、「私たちは日本が大好きです。」っていう方たちがもう、本当にほとんどなんですね。なかなか、まぁ、「日本が嫌い。」という方は私に近づいて来ないということはもちろんあるとは思うんですけれども、日本が本当に大好きな方たちが沢山いらっしゃる。もう、親日的な国です。

で、当時、日本から戦争で向こうに行っていたという方とお話をするとですね、やはりもう最後はみんな、もちろん武器もなく、そして食べるものもなく、病気になってマラリアになったりして、で、その餓死したり病気で死んでいく。ま、そういう中でですね、本当に極限状態の中で、迷惑をかけるようなことも実は沢山したと…。それでも、その時ビルマの人たちは、そういう、まぁ死にそうになっている人たちを、もしかしたら見つかったら殺されてしまうかもしれない中で、家でかくまってくれたり、飲み物や食べ物を分け与えてくれたりしたと。もう本当に、「自分は感謝をしているんだ」ということを言われていました。

で、その方は、その後、ずっとミャンマーから日本に来る人たちに奨学金を、もう普通の会社員だったような、特別なお金持ちとかいう方では全くないんですけれども、奨学金を出し続けてですね、多くのミャンマー人がその人のことをお父さんのように慕っている、というようなことがありました。その方が、それでもまぁ、多くの人に迷惑をかけてしまっているので、なかなかですね、またミャンマーに戻って亡くなった方たちの慰霊をすることが出来なかったんだけれども、何年か経った時に、やはり慰霊に行きたいと思ってミャンマーに行ったそうです。そしたらどこに行っても、みんなに温かく迎えてもらったと。それが自分は本当に嬉しかった、という話しをしておられました。その後その、奨学金を始められたんですけど、まぁそんな国をこう、見ているとですね、まぁ日本ももう一度何か取り戻さなくてはいけないのかな、というふうに思います。

■カンボジアで貧しい子供のために献身的に働いている田中千草さんの話

先日、カンボジアにも行かせていただきました。カンボジアで、日本から、元々は青年海外協力隊で行った、若い先生がいるんですね。その、田中千草さんという先生なんですけれども、その先生はそこの学校に最初行きまして、で、音楽を教えることになります。音楽なんていうのは、普通そういう途上国では、まぁほとんど教えることはない。国語とか、まぁ、あの、算数とか英語とか、というものは教えるんでしょうけども、なかなか音楽を、歌ぐらいは教えられるかもしれないですけれども、楽器や何かも買えないですし、そういうものは普通はないんですけれども、先生は「ぜひこの子達に音楽を教えたい」というふうに思われて、音楽をそこで教えることになります。そして、私が行った時に、そこで子供たちが演奏してくれたんですけれども、本当に素晴らしい、ピアニカだったりとか、歌も謳って、演奏または合唱を聴かせてくれました。

最初、2年間で彼女はカンボジアに行くんですけれども、帰る時に「どうしても帰らないで下さい」って言って、多くの署名を集められて、そして一旦彼女は戻るんですけれども、彼女はまた、そこのカンボジアに行って、子供たちの教育にあたります。でも、その教育だけでもすごいと私は思って、その貧困地域にいるあの子たちをあれだけきちんと、歌がうたえて、演奏が出来るように育てるということも素晴らしいな、というふうに思うんですけれども、彼女はその、自分がいなくなったら出来なくなっちゃうのではダメなので、先生たちにまず教えたと。自分がいなくなった時でも、みんながそれを教えられるように、続けられるようにということで、まずは先生たちに教えたそうです。

そして、貧困地域の子供たちが売られていく、どんどん、その、親がお金が欲しいために、あるいは騙されて子供たちを他の地域に売ってしまうという現実を見てですね、これを何とかしなくてはいけない、というふうに思ったそうです。で、今、シェルターを今度は作って、そこにお母さんや子供たちを住まわせてですね、なるべく外に、そういう小さい子供たちが流出しないようにしていきたいと。本当にちっちゃい、小さくて小柄でですね、細い華奢な先生なんですけれども、私が行った数日前には、やはり子供が売られていってしまったと…。

それを聞いて先生は何をするかというとですね、だいたい売られて行く場合というのは、国境沿いのある地域から出ていくらしいので、もう目星を付けて、そこに子供を取り戻しに行ったそうです。

で、そこに子供はいたんですけれども、彼女は持ち合わせのお金がほとんどなかったので、お金と引き換えにすることが出来なくって、子供だけを引き取って返してもらって、彼女が代わりに人質になって、しばらくそこに軟禁状態で置かれていて。そこに、まぁ、お金を持った彼女の知り合いが来て、で、そのお金と引き換えにまた彼女は戻してもらった、というような…。まぁ、そんなすごい生活をしています。え~、日本の女性はすごい逞しいなぁというふうに思いました。で、彼女はまだ三十代。本当に若い女性なんですけれども、自分のところでも売られていってしまうような、親が面倒を見れない子供を5人ぐらい引き受けていて、自分の子供ように5人ぐらいいるんですね。

で、なおかつ私たちが行った時には、学校の子供の一人が、病院に入院することになってしまって、その病院に入院するには大人が誰か付き添わなきゃいけないと。で、その親は付き添えないので、「先生、付き添って下さい。」ということになって、で、病院の床で彼女は私たちが行っている間、寝て、2時間ぐらい寝て…。そして朝になると、私たちのために通訳と、案内のために朝から出てきてくれて、で、本当に嫌な顔ひとつせずにですね、通訳したり案内したりしてくれました。

なんか、こんな女性がいるんだなぁ、なにかこう、手伝ってあげたいなって。本当に一人で一生懸命頑張って、頑張って。で、百何十人の貧しい子供たちも、彼女はずっとこう、あの、日本からお金を預かって里親のようにですね、面倒を見てる、というか、そこにはまぁ家族があるんですけれども、でも、ちゃんとした教育を受けられてなかったり、ちゃんとしたまぁ、食べ物を食べていなかったりするような家なので、ずうっと家庭訪問をするんですね。で、まぁ、お米を持って行ったり、まぁその、教科書持っていったりというのを最初は車もなかったらしいので、お米を頭の上にこう載せてですね、えー、雨期になると、もうここら辺まで水があったりするようなところもあるらしいんですけれども、そういう中を、一軒一軒お米を届け、そして、「ちゃんとご飯食べてますか?ちゃんと子供たちは勉強していますか?」ということを、言って、回っている。

その、「すごいなぁ!」というのはみんな言えると思うんですけれども、本当に実践しているというのは、私はとても逞しい、こういう誰かのために自分を犠牲にしても、誰かのために一生懸命やるという、それがやはり日本人の美徳なのかなぁと、彼女を見ていて本当に思いました。ぜひ、あの、田中千草さんと言って、検索して頂いたらたぶん色々と出て来ると思うんですね。寄付も集めているので、良かったら、あの、調べてみて頂いたらなぁというふうに思います。

■バングラディシュの「アジア女子大学」の活動も支援

教育というのは、あの、まぁ本当に大切で、そうやってまぁ、途上国でも日本人が入っていって、いろんな教育をしています。私があの、バングラデシュで、一つ支援をしているのが、『アジア女子大学』という大学です。そこもやはり、貧困地域の子供たちで、高等教育を受けられるような子供たちじゃないんですけれども、本来であれば。でも、とても優秀な子供たち。奨学金を出して大学に通わせてあげる。そしてそこで、リーダーシップを学んでもらって、国に戻ってもらって、国のために働いてもらおうという、そういう大学なんですね。で、女子、女子ばっかりの、大学です。私は、日本で、アメリカ人の人たちがその支援をしていて、頼まれて今、支援を一緒にさせてもらっているんですけれども。数年前にチッタゴン、バングラデシュのチッタゴンという所にある、大学の、大学を見に行きました。

で、そこで、その女子大生たちが、議論をしているんですけれども、その議論がもうとても、建設的な議論をみんなしていて、感動しました。で、ある2人はですね、確かパキスタンだったと思うんですけれども、紛争地域にある2人の女子大生、学生なんですけれども。その、家に戻ると、紛争地域にあるので、その、親であったり親戚同士であったりというのは、仲良くすることは出来ないような、まぁそんな関係にある2人なんですが…。

でも、私たちはその、紛争地域から来ていてもですね、お互いにこうして一緒に机を並べて勉強をすることが出来る、すごく仲良くなれるかどうかは別にしても、ちゃんと同じ教室で仲良くすることが出来るんじゃないかということを、議論をしていました。

私は、まぁ、こういうことが平和への道なんじゃないかなぁと、その時に思って、それ以来一生懸命あの、(※コップの水を飲む)支援をしているんですけれども…。ただ、「平和、平和」という風に叫ぶのではなくてですね、最初の話しに戻ると、どうやったら平和を創っていけるのか、ということを建設的に、この大学では(※咳き込む)、女子たちが学んでいる、ということが本当に素晴らしいというふうに思っています。

■これからは女性の女性らしさ、母性、繋がる力、感性をもっと活かしていくべき

で、あの、まぁ(会場に)男性が沢山いらっしゃるので、男性ももちろん素晴らしいんですが、これからは女子の力というのもですね、非常に重要なんだろうなというふうに思っています。女性が、(※再び咳き込む)ゴメンナサイ…、女性が今まで、もちろん、その、男性をサポートするという意味ではですね、活躍して来たと思うんですけれども、女性が前に出るということが、なかなかこの日本の中では、保守の社会なので、え~、好まれてなかったような気がするんですね。(※コップの水を飲む)私は、女性の役割は、決して男みたいになることではないし、男に取って代わって、その地位を求めるものもないと思っているんですけれども。女性は女性らしい、その、え~、母性であったりとか、包み込む力であったりとか、繋がる力であったりとかっていうものを活かして、もっと社会の中で活躍していくべきなんではないかな、というふうに思っています。

で、そのアジア女子大、私も女子校育ちなんですけども、アジア女子大学…。「なぜ女子なのか?」っていうことを話している時に、アジアの中にはイスラム圏の国もあるので、そういう意味で女子の方がいいだろうというのは一つなんですが、「女子のリーダーは女子の中で育つのではないか?」という意見もありました。あの、男性と一緒に育った女子がリーダーとしてダメ、っていうつもりは全然、もちろんないんですが、女子だけでいるとですね、男性に甘えることが出来ないので、女子の中で全部、あの、やっていかなくては行けない。

よく私が例に出すのは、あの、ゴキブリが歩いていると、(※咳き込む)ゴメンナサイ…、で、男性がいると、え~、男子学生がいたならば、女の子たちは「きゃぁ~!」と言って逃げる。でも、男の子がいなくて女の子だけの場合は、誰かしらがそのゴキブリをスリッパを持って殺すかもしれない。そういう意味では、え~、まぁ女子の中で女子のリーダーが育つのではないかっていうのは、まぁ、もしかしたらあるのかもしれないなぁというふうに思ったんですね。

で今までは、その、高度経済成長の間に男性たちがですね、本当に一生懸命こう、より強い国、より大きくということで頑張ってこの国を発展させて来て下さったと思いますし、それはとても感謝をしなきゃいけないです。え~、今豊かなこの日本があるのは、戦後そうやって黙々と働いて下さったかたのおかげだというのはとても感謝をしていますが、今これだけこう、成熟した社会になってですね、女性たちがそれをこう、先程申し上げましたように、繋がる力で女性のその、感性を活かして、縦のその、男性的なものと、こう、女性的なものが組み合わさっていくことによって、より豊かな社会が出来るのではないかと私は思っています。

■安保法案には賛成。私の夢は「世界が平和になること」

で、あの、安保法案に反対することはもちろんないんですけど、私自身はものすごい平和主義者で、「私の夢はなんですか?」と言われたら、本当に世界が平和になることだと最近はお答えをしているんですけれども、どうやって平和を創っていくか、ということの一つはやはり、みんなが繋がっていくこと。女性たちが繋がり、まぁ政治家は政治家のお仕事がありますけど、そうじゃなくて民間レベルで政治家が繋がっていったり、あるいは、今まで弱いというふうに言われていた、障害者であったり、病気の人たちであったり。また、まぁLGBTみたいな人たちであったり、そういうところが、あと子供たちですね、子供たちがもうどんどん世界に出ていって、世界と繋がって行くことが、私はこの平和に繋がるのではないかといういうふうに本当に思っていて。

え~、自分なりのこれから、こう平和を創って行くために、何が出来るのかなぁということを、まぁいつも考えているところです。

■北海道にある難病の子供たちのキャンプ場を訪問。健常の子供たちにも知ってほしい

私はあの、あちこち行くんですけれども、あの、この間、ちょっと話しはまた逸れますけれども、え~、北海道に行って、滝川市(たきかわし)という所に行きました。その、滝川市にある『空プチKids』っていう所を見に行ったんですけれども。まぁそこはですね、あの、小児がんであったりとか、あるいは心臓病であったりとか、まぁ難病を持っているような子供たち、学校にも行けなかったり、外にも中々出れない。そんな子供たちのための、キャンプをやっている施設なんですね。で、3泊4日の施設が、キャンプを、その、普段は外に出れない子供たちに体験をさせてあげようという、そうしたキャンプ上に、まぁキャンプ中ではなかったんで子供たちには会えなかったんですけれども、そこの施設を見せていただいて、そのスタッフの皆さんと懇談をさせて頂きました。

本当に、あの、ここはヨーロッパなんじゃないかしらっていうような思い、思うような、あの、広々とした景色の中で、素敵なキャンプだった、キャンプ場だったんですけれども、外で遊ぶことが夢だ、という子供たちがそこで、もちろんお医者様や看護士さんもいる中でですね、え~、キャンプをすると。自分は、すごく一番大変だと思っていたけれど、同じような境遇の子たちが沢山いて、自分だけが大変なわけじゃないんだということを感じたり、あるいは、普段、親御さんが自分のことばっかりに関わることになるので、なかなか他の兄弟たちが親と一緒に遊べなかったりという中でですね、家族や兄弟がものすごく一緒に楽しんでいる姿をみて「それが何より嬉しい。」というふうに言っていたり。

3日間、たった3泊4日の短い期間なんですけれども、大きく子供たちの心が変わっていって「もう自分なんか、夢はないんだ…」と思っていた子たちがですね、夢を語り始めるんだそうですで、一人の男の子は、「9年間自分は生きてきて、初めてお父さんのこんなに笑った顔を見れて嬉しい。」と言って帰っていったそうです。で、あの、そういう子供たちが世の中にはいるんだよ、ということもですね、また、広くあの、普通の元気な子供たちにも分かってもらいたいなぁというふうに思います。

日本では、あの、まぁ貧困は増えているというふうにも言いますけれども、やはりほとんどの子供たちは、他の国と違って、まぁ今、学校にも行ける状況ですし、いろんな物が手にも入るんですけれども。まぁ自分たちが、あの、こうしていられるのは当たり前ではなくて、感謝をしなくてはいけないという、本当にその感謝の気持ちをみんなに持ってもらうためにもですね、まぁそんな子供たちと、普通の健常者の子供たちが触れ合うような、そんな場所も出来たらいいのかなぁなんて、あの、そのキャンプ場を見て思いました。

あの、もし北海道に行く機会がおありでしたら、ぜひその滝川市のキャンプ上を見ていただきたい。ま、視察が沢山来ているということでしたけれども、スタッフの何人もの人たちはですね、北海道出身ではないんですけれども、そこが素晴らしいということで、小さい4万人ぐらいの市なんですけれども、移住をしていて、そこでその施設のために働いているという、そんな所です。

■瑞穂の国記念小学院で、日本の国を誇りに思える子供たちに育ってほしい

え~、ちょっとそろそろ時間だと思います。まぁ、なにか取り留めもなく、え~、話しをして来ましたけれども、あの、この瑞穂の国記念小学院が、無事に開校することによってですね、そうした、あの、感謝の気持ちをもって、人の気持ちの分かる、そして、え~、日本人として、日本に生まれた者として、この日本の国を誇りに思えるような、そんな子供たちが沢山育って行って欲しいと思います。

■平和とは、自分の心の中の平和から。信念と誇りを持つことが大事

あの、平和、また平和の話しに戻ります(笑)。平和はですね、まずは、やはり私は、外にあるんではなく、まずは自分自身の心の中の平和なんだろう、というふうに思っています。そして、自分の家族であったり、地域であったり、学校であったり、自分の属する組織、そして、まずは自分の国の、この国の中、が平和になって、それから、こう、外に向いて行く。平和になることはやはり、信念を持って誇りを持つことが一つ大事なのではないかなというふうに思っています。

■長州で採れたお米を、長州を恨んでいる会津でお酒にしてもらった

あ、もう一つ、全然またちょっと違う話しなんですけれども、え~、私はあの、山口県で無農薬のお米を作っているんですね。3.11の後に、え~、まぁ、食料が大事だということを思ったのと、やはりまぁ、お米づくりというのは日本人としての基本だなぁと思ったので、ぜひ多くの方たちに手伝って頂いて、お米づくりをしたいと思って、え~、始めました。

で、去年から『山田錦』という、お酒になる酒米を作り始めました。そして、今年の初めに、その、山口県で作ったお米を会津若松に持って行って、会津若松の『末廣酒造』さんという所でお酒にしていただきました。え~、なんでその会津かっていうと、まぁ山口県はその、長州なんですね。で、会津と長州というのは未だに仲が悪いんです、実は。え~、あまり関係のない所の方は、あの、え~、理解が、「なんで未だに?」と思われるかもしれないんですけれども、まぁ、会津の方はですね、やはりこう、まだまだこう、あの、恨みが(笑)どっかに残っているみたいで、え~、実は仲があまり良くないと。

で、日本の中でそんなにこう、未だに仲が良くないということは、あの、良くないんじゃないかというふうに思って、で、その「平和のお酒」にしたいなと思って、長州で採れたお米を会津でお酒にしていただいて。私は、『やまとのこころ』っていう、あの、名前を付けました。え~、やはり大和の心はこう、結びの心でも私はあるんだろうというふうに思ってこう、今、いろんなものがこう、分離されてしまってバラバラになっているものが、あるのをこう、合わせて行くというような、まぁ、そんなお酒になって、それを飲んだ人が幸せになったらいいなぁというふうに思って、え~、付けました。

あの、それは一般にはあまり売らないんですけれども、もし東京に起こしの際は私はあの、え~、内神田で『UZU』というあの、お、お、ウフフ、(笑)、お店をやっています(笑)。で、そこで、あの、まぁ一杯いくらにするか決めていないんですけれども、出させていただくので、もし良かったら、あの、え~、そのお味見にいらしていただければなというふうに思います。

え~、本日はあの、お招きいただきまして有難うございました。本当にあの、なんかダラダラと、あの、皆さんの心に届いたかどうか分かりませんけれども、あの、一時間お話をさせて頂きまして有難うございました。今度ともどうぞよろしくお願い致します。(※深くお辞儀をする)

第二部

■名誉校長として素晴らしい小学校をお手伝いしたい。『安倍晋三記念小学校』の名前は総理大臣を辞めてからにしてほしい

(※保護者一同の拍手の中、降壇した籠池園長と、互いに深いお辞儀を交わし、昭恵夫人が登壇。)

皆さんこんにちは。ご紹介頂きました安倍晋三の家内の、安倍、昭恵でございます。本日はお招きを頂きまして有難うございました。

瑞穂の国記念小学院、え~、来年開校予定だったのが再来年に延びたということでございますけれども、素晴らしい小学校が出来るということで、私もあの、名誉校長で私はいいのかしら?(笑)と、思いますけれども。あの、何か籠池園長、そして副園長のもう本当に熱い熱い、この国に対する、教育に対する思い。お手伝いできればなぁというふうに思っているところです。

ご存知かもしれませんけれども、最初この、あの、名前をですね、『安倍晋三記念小学校』、『瑞穂の国安倍晋三記念小学校』ということにしたいというふうに、籠池園長からお話をいただきました。本当に、名誉なことだと思いましたけれども。まぁ主人に申しましたところ、まぁ大変有り難いお話ではあるけれども、もし、あの、え~、安倍晋三総理の名前がですね、こう、もしかしたら子供たちにとって、負担になる時があるのかもしれない。いつもいつもその、安倍政権が、良い時ばかりではなくて、時には大きな批判に晒されることがあるかもしれない。ま、そんな時に、子供たちが、その、自分の学校の名前を、どういう風に思うだろうかと。できれば、この、総理大臣という立場が終わってから、その名前を付けて頂いた方が、みんなにとって良いのではないか、ということだったので、今回はご辞退をさせていただきました

■主人も私も、「瑞穂の国小学院」の発展を望んでいる

でもあの、『瑞穂の国』というのは本当に素晴らしい、名前の小学校だなというふうに思って、この小学校が沢山の生徒さんたちが集まられて、ま、発展していったらいいなぁというのを、主人も私も望んでいるところでございます今日はあの、朝から来させていただきました、あの、10時の会の前にはですね、あの、園児さんたちが、ここに並んで大きい声で、「大学」を暗唱してくれました。

■「素読」で人間が変わることを知って「素読の会」を始めた

あの、私は以前、知心学舎(ちしんがくしゃ)という、九州にある学校に行ってなかったり、働くことが出来なくなった若い人たちのためにの施設を訪ねた事があるんですけれども、まぁそこで、素読を取り入れていて、毎日、そこに生活している若い子たちがですね、畳の上に正座をして、え~、ま、四書五経を、暗唱するんですね、素読をしていて。で、その、ものすごく大きな声で、堂々と、その、読んでいる姿を見て、この子たちが、なんで学校に行かれなくなっちゃったような子たちなんだろう…、受け答えもきちんとしてくれました。で、いろいろ話しを聞いていると、最初のうちは、大きな声を出すことも出来なかった。でも、日々練習するうちに、もの凄く大きな声が出て、早く読めるようになって、え~、暗唱することが出来るようになって。

で、そうすると、その、人間自体が変わっていくんだと、ものすごくこの、芯が通ってくると…。その、人間の、その、背骨、そのものなんだというふうな言い方をされておられました。そして、まぁ一年ぐらいそれを重ねて。えー、無事に学校や社会にその人たちは戻って行くことが出来ると。えー、ただ読んでいる、暗唱している、その意味を考えて勉強するわけではなくて、ただ言葉をこう、繰り返し繰り返し大きい声で、えー、発することによって、まぁそんなに人間に影響するものなんだろうか?ということを、私はビックリして、そして、素読の会、というのを今、やっているところでございます。

■塚本幼稚園の子供たちは凄い。その教育が幼稚園だけで終わってしまうのはもったいない

で、それをですね、でも、あんなにちっちゃい、もう本当にあの、普通の会話もちゃんと、普通だったら出来るのかしらというような子供たちが、あの難しいダイガクをですね、すらすらと朗々と、暗唱しているのを見てですね、あの、ほんっとうに、あの、すごいなぁと今日、改めてこの、塚本幼稚園の凄さを感じました。

そして、きっとあの子たちが毎日のようにその、言っているその言葉は、えー、細胞の隅々まで行き渡って、きっと、その、人間性を作っていくのに大きな役割を果たすと思うんですけれども、ここの幼稚園だけで終わってしまってはやはり、勿体無い。せっかくその、え~、まぁ子供の線が通ったのをですね、小学校へ行っても続けて行くことによって、太い、立派な芯、にしていってもらいたいなぁっていうふうに思って。え、この、えー、幼稚園から小学校に、こう、繋がって行くこの教育に大いに期待をしたいな、というふうに思っているところです。

■幼稚園には何度か来ているが、こんなにお行儀の良い子供たちには会ったことがない

私は、以前にも何回かここの、えー、幼稚園に来させていただきました。あの、私は、あの、いろんな幼稚園や小学校に行くこともありますけれども、これ程ですね、お行儀の良い子供たちにあったことがほんっとう(本当)に無いんですね。で、パッとこう帽子をとって、ものすごくきちんとご挨拶をして下さる。まず、最近はですね、挨拶が大人でもきちんと出来ない、というのはね、本当に大きな問題であると思います。挨拶ってね、本当に、人間の基本で、えー、まぁ夫婦であっても、うちもその、毎日「おはようございます。」と言い合っているかなと思うと、あやふやなところもあるんですけれども(笑)。でも、その、家族であっても夫婦であっても、まず、朝起きたら「おはようございます。」、えー、ご挨拶がきちんと出来るっていうのは基本なんだろうなと。この小さい子供たちから私は、あのー、ここで教わっているような気がいたします。

■総理目前で病に倒れた義父。主人はそれを見ていて、来たチャンスは逃してはいけないと学んだ

私は、あの、主人と結婚して今年で、28年になります。えー、結婚当初は主人は、安倍の父は外務大臣をしていて、その秘書をしていたのですね。えー、まだ普通の秘書の奥さん、という立場でした。で、その後すぐに、えー、父が膵臓ガンの病気になりました。で、当時はですね、今だとあの、すぐに「ガンですよ。」ということを当人に話すと思うんですけれども、その時、その当時はあの、本人には話しはしないような時代だったんですね。なので、周りはみんな知っているんですけれども、安倍の父だけは自分が膵臓がんということを知りませんでした。で、入院をして、えー、違う病名を、まぁ、あの、マスコミにも発表し、本人もその、病名を信じてたぶんいたと思うんですけれども…。えー、どんどんですね、やはり、もう膵臓ガンですから完治することがなく、悪くなっていって、残念ながら亡くなってしまいました。

その間ですね、あの、病院から仕事に行くんですね。私は毎日、他にやることもなかったので、主人と一緒に病院に行ってたんですけれども、フラフラになりながら出ていって、そしてまた、病院に帰って来てベッドの上にもう、本当に今にも死んでしまいそうな勢いでバタンと倒れて行くような、安倍の父の姿を見ながら、(政治家っていうのは、命懸けの仕事なんだなぁ)というふうに思いました。えー、どんどん痩せていく、父のために、安倍の母は少しでもこう、体格が良くみえるようにと、下着の中にこう、綿を入れたりして、少しでもこう、昔の姿に戻すようにということをしていたりしていました。で、あの、病院から外に出ていくとそれでも、政治家らしく振る舞わなきゃいけないということで頑張って、えー、いました。

総理大臣も本当にすぐ、目前というところで、残念ながら、まぁ、病に倒れてしまって、どんなにか無念だっただろうなぁというふうに思います。安倍の父もすごく人がいい人だったので、中曽根さんがこの、次の総理を決める時にですね、まぁ当時はその、今みたいな形でオープンではなくて、こう、密室で割りと決まっていたようなこともあって、中曽根さんが「竹下さん」というように次を指名したんですけど、ま、その中では随分いろんな話し合いがおそらくあって、父は、あの、すごく竹下さんと仲が良かったので、まさか自分が次に、その、後すぐに病気になって亡くなるとは思わないので、「じゃあ、いいよ。竹ちゃん先にやればいいじゃない。」というような話し合いがどうやら行われたのではないかなぁというふうに、みんな周りは推測、まぁ父がそういうことを言ったわけではないですけれども、みんな推測をしていました。

しかし、残念ながらその〈竹下さんの後〉、というのがなくなってしまったのですね。えー、主人はそれをこう、間近で見ていて、来たチャンスは、やはり、いつ、それをまた次のチャンスがあるかどうか分からないから、掴み取らなきゃ行けないんだ、と。えー、〈チャンスの神様は前髪しかない〉という。えー、まぁ必ずそこを掴んで置かないと(※掴み取るしぐさ)、逃げてしまうんだということを、その時、学んだんだろうなぁというふうに思います。

■17歳からの持病で、1年で総理を辞職。主人は無念でいっぱいだった

そして、小泉総理の後にですね、多くの方たちが、「まぁまだ若いし、もう少し待った方がいいんじゃないか?」というご意見もあったんですけれども、えー、まぁ、ここでもし、えー、国民の皆さんが期待をかけて下さるんだったら、命懸けで頑張ろうという思いで総裁選挙に出馬をして、そして、第一期目、総理大臣にさせていただきました。ま、一年間、私は本当に間近で見ていて、(大丈夫かしら?)と思うぐらい頑張っていたと思いますけれども、えー、残念ながら病気のために一年で辞めることになってしまいました。

ま、父の時、父はまぁ、総理大臣にはなれませんでしたけれども、主人も総理として一年間やってみて、自分がやりたいと思っていたことがまだ道半ばだったので、本当にその時になんで病気になっちゃったんだろうと、悔しい、無念な思いで本当にいっぱいだったと思います。それまで、えー、潰瘍性大腸炎という病気、17歳からずっと持っていたんですけれども、まぁ良い時があったり、悪い時があったり、えー、でも、段々とですね、発症しなくなって、そしてもう、体力にある程度自信がついたということもあって、えー、出たにも関わらず、えー、その、たい、体調のために辞めるというのは本当に悔しかっただろうな、というふうに思います。

■それまでに実は何度も入院。「政治家を辞めたら」と言ったこともあった

で、私はあの、何度か「政治家をやめたらいいんじゃないの?」と言ったことがありました。まぁ、あの、総理辞めた時も「もう、辞めたら?」って言ったんですけれども、その前にもですね、実は何回も入院、入退院を繰り返していることがあって、えー、まぁ長い時で2~3ヶ月入院をして、3ヶ月近く入院をしていました。で、政治家は、あの、身体が弱いということが、まぁ、致命傷である、というふうに思われているのでですね、主人は病気であるということは絶対に人には言ってはいけない、ということで私も、その、主人が入院しているということは誰にも言えない。ま、私の親とかぐらいには言ってましたけれども、それ以外にはあまり友達とかにも言っていなかったんですね。

で、地元の山口県の選挙区の会合なんかも、主人が行かれないので私が代わっていろんなところに出なくてはいけない。で、まだ若い時だと、いつもいつも奥さんが代理で来ていて、「なんで本人が来ないんだ?」と、「こんなに一生懸命に応援してあげて、本人が来るって言ったのに、どうして来ないんだ?」って言って責められるわけですね。でも、「ほんっとう(本当)に申し訳ございません。ちょっと東京で大事な用事がございます。」と言っていつも私は嘘をつかなくてはいけない。

■病気を隠してずっと嘘をついてきたが、辞職後公表したら、多くの人から励まされた

で、病気で苦しんでいて、えー、それでも(仕事を一生懸命しているような人たちが世の中には沢山いるんだから、むしろ病気でも政治家をやっていますと、堂々と言った方がいいんじゃないか?)って私はちょっと思っていたんですけれども。でも、政治の世界というのはそういうものではなくて、身体が弱いとなったらすぐに足を引っ張られてしまうと。主人はそれをきっと、恐れていたのかもしれないですし、とにかく人に言ってはいけない、と言われてずうっと、まぁ嘘を突き通して参りました。

しかし、その、えー、総理を辞めて病気になってしまった。で、「自分はこういう病気を実は持っていたんです。」、ということを話すことになりました。そうするとですね、やはり、多くの人たちがですね、「自分も同じような病気を持っているんです。頑張って下さい。」と言って患者の会の方たちから沢山のお励ましをいただきました。まぁあの、主人が、最初発病した17歳の頃というのは、潰瘍性大腸炎という病名すらも分からないくらい患者さんが少なかったらしいですけれども、まぁ今は、本当に患者が増えて、まぁ難病ではあるんですけれども、割りとこう、お薬もいいお薬が出て来ましたし、完璧というとちょっと違うかもしれないけど、かなりあの、えー、皆さんが知っている病気になってしまいました。

■辞職は主人の人生初の挫折。そのあとも「自分が総理だったら」と考え続けたことが今の政権に繋がっている

で、いろいろそういう経験を経て、で、ま、辞めることになってしまって、すごく残念ではあったんですけれども、でも、あの人生ですね、あの、主人もその、祖父も政治家、まぁ両方の祖父も政治家、父も政治家、まぁ父は早くなくなったとはいえ、外務大臣とか要職を歴任して立派な政治家でした。で、そこの家に生まれて、えー、一回も選挙に落選をすることもなく、えー、トントン拍子にまぁ人から見れば、苦労もあまりしないままにこう、偉くなってしまったように見えたと思います。主人自身も、他の、政治家の家に生まれていなくって、自分でその、政治の道を志して選挙を勝ち抜いて来たような同僚の先生方を見ていて「すごいなぁ、あの人たちは…。」というふうに言っていることもあったので、どっかでやはり、自分にはそうしたものがない、というふうに思っていたのかもしれないんですけれども。その、えー、大きな、ある意味主人にとって初めての挫折、というのが、今の主人に繋がっているのではないかなというふうに思っています。

その後、入院をしていて退院をして、まぁ徐々に元気になって行くんですけれども、そうすると、えー、座禅に通ったりですね、ジムに通ったり、ランニングをしたり、まぁ多くの本を読んだり、人に会ったり。とにかく出来ることは何でもやろうという感じで、非常に努力をしていました。えー、残念ながら、えー、次の選挙で民主党政権に変わってしまったので、す、その、もし自分が総理大臣だったらこうする、というような事をですね、ずうっとノートに書き綴っていたと思います。たぶんそうして、ずうっと考えていたことが、今の政権でやっていることに繋がっているのではないかなぁというふうに思っています。

■辞職後初の選挙で大勝。主人の覚悟を本当にすごいと思った

その次の選挙はすごく厳しい、民主党政権に変わった、自民党が大敗した選挙でした。主人は、えー、自分が総理大臣を辞めて初めての総選挙ですし、(ここで皆さん方にちゃんと承認をしていただかなければ、自分の政治生命は終わる)というふうにも思っていたと思うんですけれども、えー、ほんっとうに(本当に)初心に戻ってですね、何百件ものミニ集会、えー、本当に十人二十人の小さい集会をずうっとして、回って、いましたし。えーまた、ま、選挙の前は、暑い中、一軒一軒、民主党のポスターが貼ってあるおうちまでも、えー、自ら歩いて回って、「自分のポスターを貼って下さい。」って言っていってお願いをしたりしていました。

えー、これぐらい本気なんだなぁと、この人、本当にまだまだ政治家としてやるつもりなんだなぁと思い、私自身もそこでまぁ、覚悟を決めたような感じではありましたけれども、人によってはですね、「元総理大臣がそんなにあの、新人のような這いつくばった選挙をするのは逆効果だし、堂々としてもらいたい。」というふうに言っていた人がいました。しかし、主人は政治家の勘としてですね、今回の選挙は本当に厳しいというのがよく分かっていたので、自分が出来ることは全てやり尽くすんだという思いでですね、人から何を言われようが自分のやり方で選挙をして、そして、えー、多くの同僚議員が残念ながら落選をされる中で大勝をさせていただきました。やっぱり私はそれを見ていてですね、本当にすごいな、と思いました。

■主人は自分の選挙区に帰れないので、代わりに私が候補者のように選挙運動

で、それまでの選挙もですね、あの、主人は自分の選挙区に帰れないので、私が代わりに全部選挙カーに乗って、そして、えー、演説会に出てという、全ての工程を私が候補者のようにやるんですけれども、で、まぁ、私はあの、みんなの気が緩まないように、あの、ただひたすら一生懸命、そ、その、えー2週間選挙をするだけなんですが、主人はですね、あっちゃこっち、えー、全国、同僚議員の、えー、応援に回るんですね。その間に、ずうっっと自分の後援者に、一人一人携帯電話に電話をかけ続けます、「よろしくお願いします。」と。で、絶対に何かやる時にその、気を抜かない。で、最後まで自分が出来ることを、えー、全力でやる、という。やっぱりそれは、あの、えー、私は(彼の本当に素晴らしいところだな)と、夫ながら思っているところですし、まぁ、今の二回目の安倍政権も、自分が出来ることをほんっとうに(本当に)精一杯やろうと思って、えー今、命懸けで頑張っているところで。

■主人は信念をまげず、本当にこの国の将来を考えて物事を決定している

まぁ最近はですね、まぁ安保法案のこともあって、ちょっと風邪を引いたり、あの、週刊誌には『吐血をした』というような報道もされました。それはもう、(※力を込めて)100パーセント嘘で、まったくそんなことはないんですけれども、えーなぜかそんな嘘の記事が出てしまったりしたんですけれども、それでも、あの、自分が出来ること、これをやることがこの国にとって、本当に必要なことであるから、えー、岸の祖父が、その安保法案通した時もですね、もうあの、家の周りまでもう、本当に人で溢れていて大変だったそうです。で、その時まだ主人は小さかったので、あの、その、家の中にいて、えー、「アンポホウアン、アンポホウアン」というのを聞いて、自分も「アンポホウアン」というのが何のことだか分からずに口に出していたというふうに言ってますけれども…。

えー、どんなに人から言われようが、自分の信念、この国の本当に将来を考えて物事を決定するのがリーダーの責任であるということをですね、えー、たぶん祖父を見ていて、えー、子供ながらにしっかり学んでいたのがまぁ今、活かされているのかなというふうに思っておりますので、どうか皆様方には、あの、ご理解をいただければなぁというふうに思います。

■戦後70年の終戦記念日には特攻隊の基地があった知覧に行ってきた

今年は、戦後70年、あの、本当に節目の年で。まぁ多くの方たちは、自分の国の国防とか、戦争とか、平和とか、そういうものを改めて考え直した年だったんじゃないかなぁというふうに思います。で、私は、8月15日の終戦の記念日に、今年はどこで、戦後70年の記念すべき年でもあるので何処で過ごそうかなぁ、というふうに思って。えー、知覧に行って来ました。初めて、えー、知覧に行って来たんですけれども、そこで、特攻隊で知覧から飛び立って行った方たちが、過ごした、最後を過ごしたという食堂であったり、旅館であったり、書き残したお手紙であったり、沢山のものを目にしてですね、二度と戦争を起こしてはいけないという思いを強くすると共に、本当にその、この日本の未来を思って、そして、自分が飛び出って行くことが、この国のためになるんだと思っていた若者たち、のことをやはり私たちは忘れてはいけないんだなぁということを、まぁ改めて感じました。

えー、17歳、18歳、えー、本当に多感な、もう今から人生を楽しむんだという若者たちがですね、国のために自分の命を捧げるというのは、どんなに勇気がいることだったのかぁというふうにも思いますけれども、まぁそこには、泣き言もなくですね、家族であったり、えー、まぁ結婚している人たちは、えー、まぁ特攻の場合は来なかったとは思いますけれども、特に母親だったり、兄弟であったりという、ある人は妻であったりに対するその、思いをつらつらと、その後に、本当に良い世の中を作って欲しいというようなことを書いてあるのを見てですね、もちろん、泣いたこともあるかもしれない、若いから生きたいという思いも強かったし、なんで戦争になっちゃったんだという悔しい思いもあったかもしれないけれども、でもそこに、自分の命をかけてこの国を守りたいと、思っていた若者たちがいるということは、ほんっとうに(本当に)事実だと思うんですね。で、それを、なんかあの、「戦争を美化している」というような言い方で片付けるのは簡単かもしれないですけれども、私たちはその、彼らが命を懸けて守りたいと思ったものを、本当に今、守れているんだろうか?っていうことを改めて、この戦後70年、考え直さなくてはいけないんじゃないかなぁということを、まぁ知覧に行って思いました。

まぁそこに、えー、鳥浜(トリハマ)…、ん?、トメさん…?、ん?ナニ浜でしたっけ…、ええっ、トメさんというその、えー、えー、食堂をやっているまぁ、あのオバサンがいて、で、その人が、その特攻の人たちをこう、子供のように可愛がっていたそうです。そこで、えー、暖かい食事を食べさせてあげたり、本当は、えー、門限があるので、何時までに帰らなきゃいけないというのがあるんですけれども、夜遅くまでお酒を飲ませてあげたり。

時には、韓国籍に人がそこにいたそうですけれども、えー、仲間外れになっているようなその人にとっても、まぁ日本の兵、兵として飛び立って行く彼に対して温かい言葉をかけてあげたりと、まぁ、いろんなストーリーがそこには残っていました。で、まぁ改めてその、あ、あ、その特攻隊のその、お手紙を読んで本当に涙を流しながら、えー、東京に戻って来て…。これはやっぱり、靖国神社にまた行かなくてはいけない、と思ってですね。

■靖国神社を参拝したことをフェイスブックにアップ。批判のコメントはあまりなかった

で、それでそこに、靖国神社をお参りをさせていただきました。私はあの、もちろん、あの、何回も靖国神社を参拝をしているんですけれども、えー、前回の時も、初めて、その時じゃない、その前に行った時に初めて、まぁフェイスブックに、えー「靖国神社を参拝しました。」ということを書きました。えー、それはちょっと新聞記事にもなったんですけれども。今回もあの、「靖国神社を参拝しました。」というのをフェイスブックにアップさせていただきました。それも、ちょっと書いた記事はあったようですけれども、でも、大きな問題になった様子もなくてですね、私のフェイスブックのコメント欄には、えー、「ありがとうございます。」というコメントがほとんどで、それに対する批判的なものはあまり、ありませんでした。

■総理大臣が靖国神社を参拝してもいいのでは、と思っている

あの、沢山の人は本当は分かっていて、えー、主人にも、主人にもというか「日本の総理大臣には靖国を参拝をしてもらいたい」と、「靖国で会おうね」と言って、お国のために亡くなって行った方たちがそこで、その御霊が集まっているんだとすれば、まぁ総理大臣としては、私は、あの、(参拝しても本当は良いのかなぁ)というふうには思っています。まぁいろいろあの、まぁ隣国との関係等々、ありますけれども、でも、本当は日本人としてはですね、うーん、(そこは、他の国を気にすることではないんじゃないかなぁ~?)と、私は個人的にはあの、思っている、ところです。

■外遊に同行してパプアニューギニアに。戦争中、日本兵はいいこともしているのに、メディアは報じない

パプアニューギニアという国に、あの、主人の外遊について行きました。えー、(※聴取不能ウエガクチー?)地方というところに行ったんですけれども、そこはですね、あの、そこの州知事さんというのは、パプアニューギニアの父と言われて、パプアニューギニアを作った元首相です。で、すごく日本に感謝をしていて、主人が行くということで、日本の総理が来られるってことでですね、その日、その地域をお休みにして下さいました。休日にしたんですね。

なので、その、村中の人たちはみーんな、あの、飛行機が着いたらば出てきてくださって。で、えー、なにか踊っているんですね、もう。で、横断幕にはあの、安倍総理、〈ようこそ!安倍総理〉という、まぁちょっと読めないような日本語もあるんですけれども、でも、すごくあの、えー、温かい言葉で、えー、綴られているものがいっぱい各地にみられて、みんな踊って歓迎をしてくれました。そして、あの、普通はまぁその、外に人がいる場合は「あんまり窓を開けないで下さい。」と言われるんですけれども、私たちはそこを窓を開けさせてもらったら、お花がどんどん、投げ込まれて。それがたぶん、歓迎の印だったんだと思います。

で、なんでそんなに、えー、日本が好きなのか?パプアニューギニアでも、あの、十何万人の日本兵が亡くなっていて、その慰霊碑をお参りするというのが一番の、主人の目的だったんですけれども、えー、おそらく、まぁそこで戦闘が繰り広げられていたりすると、そこの地域の方々にはご迷惑もきっとお掛けしていたはず、なんですけれども、えー、大歓迎。私はその、元首相、州知事に、「なんでこんなにご迷惑をおかけしたかもしれないのに、歓迎して下さって日本のことが好きなんですか?」っていうふうに伺いました。

戦争と、その、人間は違うんだと。戦争は恨むけれども、決して日本人は、えー、恨むような人たちではなかったと。で、そこに、えぇと…、ちょっと名前、忘れちゃったんですけど、ある日本の中将が来られて、で、子供たちのために学校を作ったそうです。えー、「当時そこの地域は、学校が一つもなくて、子供たちは全く読み書きも出来なかった。それが日本の兵隊さんが来て学校を作ってくれた。」と。で、そこにその首相は通っていたそうです。で、そこで、えー、まぁ簡単な読み書きを習うようになって、少し英語も勉強したのかもしれません。少しの日本語も勉強したのかもしれません。で、学ぶということの素晴らしさを、えー、そこで学ぶことが出来たと。で、「日本兵が撤退してしまうと、またその学校はなくなってしまったので、残念ながら僕たちは、また学校がない生活になってしまって、でも、学ぶことの素晴らしさを教えてくれた日本人には本当に感謝をしている。」という話を聞かせてもらいました。

で、そういう話っていうのはですね、そこのパプアニューギニアに行っている、取材をしている報道陣は聞いているはずですし、取材もしているはずなんですけれども、まぁほとんどのメディアは取り上げてくださらないんですね。日本人が戦争中に悪いことをしたっていうことはいくらでも出すんですけれども、戦争中にもいろいろないい話も沢山あるんですね。それは「戦争を美化しているんだ。」ということで、えー、なかなかメディアに出て来ることはない。でも、みんなが戦争に行きたかったわけではもちろんないけれども、でもそこで、えー、一生懸命、そこのためにも頑張っていた人たちもいるんだということは、事実として私は広くこの先も、伝えていくべきなんだろうなぁというふうに、そのパプアニューギニアに行った時に思いました。

■パラオでも日本人は大変感謝されている。こういうことを子供たちに伝えなくてはいけない

でも、パラオもそうですよね。まぁパラオのお話は先日、天皇陛下が、えー、パラオに行かれたので皆さんもご存知だと思いますけれども、パラオの現地人と日本人と一緒に、訓練をしていた。で、そこに、外から敵が来るということになって、で、パラオの人たちは一緒に、日本兵と一緒に戦えるものなんだと思っていたら、えー、その、えー、日本兵の将校が「お前らみたいな土人と俺らを一緒に戦えないから出て行け!」って言って出ていかされた。えー、結局、信頼していた日本人も自分たちのことをそんなふうに思っていたのか、というふうに、残念に思って彼らは出ていくわけですね。で、えー、船がずうっと見えなくなって行ったら、バァ~っとその、日本兵が出てきてずうっと手を振っていたと…。(※感極まって涙声。続いて涙を右手で拭いながら、)私はこの話をするといつも涙が出るんですけれども、(※深呼吸)日本の人たちは、その「現地の人たちの命は絶対に奪ってはいけないんだ」というので逃したんですね。

なので、今でもパラオの人たちは、ほんっっと(本当)に日本人に感謝をして、で、天皇陛下をお迎えする時に、私の知り合いがパラオに行ってましたけれども、「日本でこんなに日本の国旗を見たことがない!」というぐらいの、ものすごい数の日本国旗で(※再び感極まって涙声に)、えー、天皇陛下をお迎えして下さったそうです。で、そういうことをですね(※涙を左手で拭いながら)、もっともっと日本人は本当は知らなくてはいけないし、子供たちにも伝えて行かなくてはいけないんだろうなっていうふうにいつも思っているところです。(※再び涙を左手で拭いつつ、ひととき壁時計に視線をやる

■皆さんの要望を主人に伝えるのが私の仕事――被災地の防潮堤問題

私自身の、ちょっと戦争の話はもう終わりにして。えー、私自身の今の、活動を少しだけご紹介をさせていただきます。あの、いつもいろんなところで話をさせていただいているのが、あの、被災地の防潮堤の問題なんですね。

私は何度も被災地に入っていって、いろんな方とお話を伺って、そして、皆さんのご要望を主人に伝えるのが私の仕事だっていうふうに思っているんですけれども。その中で、なかなかその、皆さんからの声があがらなかったんですが、私がふと(防潮堤ってどうなんだろうな…?)っていうふうに思って、で、ずうっと、その防潮堤問題を未だにこう、追いかけています。えー、津波で沢山の方が亡くなりました。沢山の家屋も流されました。で、国はその、えー、防災として新しく高い防潮堤を国のお金で建ててもいいですよー、ということを決めたんですね。各県や、地方自治体、市は、それならじゃあ(高さの)高いものを建ててもらいましょうということを決めました。その、震災直後っていうのは、多くの方たちが怖い思いをしているので「高い防潮堤を建ててもらいたい」、それで「私たちの命を守ってもらいたい」と思ったのは当然だと思いますし、それを国が、全部作ってくれるなら、じゃあ作ってもらいましょうと決めた、県や市を責めるつもりも全然ないです。もし、私がその場で市長だったらば、「あぁ、じゃあ、ぜひお願いします。」ときっと言っていたと思うんですけれども、でも今はもう、震災から4年以上経って、えー、高いところで14.7メートルもある、ビルで言ったら4,5階もあるような高いコンクリートで、海が覆われて見えなくなってしまって本当にいいんだろうか?もしかしたら、海の生態系がそれで変わってしまって、魚が捕れなくなってしまうかもしれない。次に津波が来た時は、津波が見えなくて、むしろ逃げ遅れるかもしれない。海の近く住んでいるという意識が失われて、危険なのかもしれない。

いろいろなことを考えるとですね、えー、そんなに高いもの、まぁ全てがそんな高いわけではないんですけれども、7メートルのところもあれば10メートルのところもあれば、まぁ低いところは5メートルのところもありますけれども。(※深く呼吸してから)もう一回、見直しても良いんじゃないかなと。全部を造ると、最初は8000億円と言われていたのが、まぁ今はどんどんあがって言って、1兆超えると言われています。そのコンクリートの壁に、1兆円かけるんだったらば、まだまだ仮設住宅に住んでいる人たちも沢山いるんですから、そっちを先にするべきなのではないかと私は単純に思ってしまうんですけれども。その、予算が、えー、この防潮堤に付いた予算を、仮設住宅に回すわけにはどうやらいかないらしくて、えー、なかなかその、動かない問題なんですね。

■復興庁の政務官に、防潮堤に反対する人たちの話をぜひ聞いてほしいと頼んだ

で、先日、山本朋宏先生という、衆議院議員の若い先生が、まぁ違うことで私のところを訪ねて来て下さいました。で、その時に、彼は今、復興庁の政務官なので、「防潮堤を見に行こうと思うんですよ。」と。で、私がずっと防潮堤の問題をやっているのをご存知なので、「防潮堤をみたい。」と復興庁に言ったら「見ないで下さい。」と言われましたと。で、本当に良い物を造っているんだったら、「政務官、ぜひ見て来て下さい!」というのが私は本当だと思うんですけど、「どうして見ないで下さいって言うのかしらね?」って言ってたんですね。で、えー、じゃ、「どうしても見に行きたい。」って言ったら、「普通の、えー、もの(既存の防潮堤?)を見て下さい。」と。で、『「(※聴取不能エルワン?)という高い防潮堤は見ないで下さい。」って言われました。』と。

で、(どういうことなんだろう…?)って、それはやっぱり復興庁も、「高い防潮堤はおかしい、見てもらいたくない。」っていうふうに思っていることなのかなぁっていうふうに思いまして、えー今度、木曜日、金曜日で山本政務官は、えー、気仙沼、えー、陸前高田等々を、防潮堤を見て回るんですけれども。その時に、もちろん「復興庁からこの人に合って下さい、この人の説明を受けて下さい。県や市から出て来るご説明も十分に聞いて下さい」と、でも、私が普段お付き合いしているような『「防潮堤を造ってもらいたくない。」という普通の、一般の人たちの話もぜひ聞いて下さい。たぶん、復興庁は嫌がると思うけれども、政治家はやっぱり、私はそれが仕事だと思うので、そういう人たちの話も聞いて下さい。』』と。

■総理の妻には、多少の発信力や影響力があっても、何の権限もない

私には、総理の妻で、多少の発信力や影響力があるにしても、私には何の権限もないので、今どうしていいか分からない。その、政務官の先生が、少し関わって下さることによって、きっと何か動いてくるんじゃないかなぁと思って、えー、私はとても期待をしています。

■誰も責任を取らない、一回決まったことは動かせない、この国の仕組みは歪んでいる

えー、私は別にあの、国のやっていることをケチつけようと思っているわけでは全くないんですけれども、あの、本質的に何が大事なのかっていうことを、みんながちゃんと考えられなくなってしまっているということ、とっても危険なんじゃないかなっていうふうに思うんですね。もう、「自分で責任を取りたくない!」って思う人がすごく多くて、もう国は、「そうは言っても県が造って欲しいっていうから予算を付けたんだ」、で、県は、まぁ最初はですね、それでも「正義のために造るんだ。」って言われてたりもしたんですが、もう今は段々ちょっと変わって来て、「国が造れと言ったから、県は決めたんだ。」、で、市は「県に言われたから、あの、市は造るんだ。」というような感じで、もう誰もその、えー、責任を取らない。そしてその、ある時みんな、その、住民が気がついたらドーンっと大きい壁が出来ていて、美しいリアス式海岸が見えなくなってしまっているというのは、ほんっとう(本当)に私はいいんだろうか?と、みんなに声をあげていただきたいと思っています。

えー、2020年東京オリンピックが決まりました。まぁ国立競技場の問題、エンブレムの問題、いろいろありますがきっといい、オリンピックになると私は思っています。そしてその時に、多くの海外からのお客様が東京に来られて、えー「日本っていい国だ、日本のポスピタリティは素晴らしい!」と思っていただくために、みんながこう、どういうことをしたらいいんだろう、って考えています。で、私は、沢山の国の方たちに、ご寄付を頂いて、その、それが復興に回っていたわけですから「こんなふうに皆さんから手伝っていただいて、お助けいただいて、復興が進んだんですよ」というところを、東北も見ていただきたい。多くの外国人の方に行っていただきたいと、「こんな、素晴らしい復興をしました!」というところを見ていただきたい。

で、その時に、その、コンクリートの壁がバァ~ってなってたら、その、「これが日本の復興なんですか?これが日本の防災なんですか?」と、このギジュツ、「技術国日本はまだ、未だにこんなことをやっているんですか?」って、私は思われてしまうんじゃないかなっていうふうに思って、えー、未だに、でも、もう、一回決まったことっていうのが、「おかしい」と思ってもなかなか動かす事ができない、この国のこの仕組みが、日本は本当に世界からみて素晴らしい国なんですけれども、やはりちょっと、えー、そういう歪んでしまっている部分もあるのかなぁっていうふうに思っています。

■関わっている「高校生未来会議」で防潮堤問題を提案したら、高校生がアクションを起こしてくれた

で、そういう中でですね、高校生たち。今、『高校生未来会議』っていうのをやっていて、で、そこに私も関わらせていただいているんですけれども、全国の高校生たちが集まって、自分たちがあの、「こういうことが課題だと思う」ということを、えー、グループごとに別れて、話し合って、それを発表することをしています。もう今頃の高校生って、ほんっとうに(本当に)優秀でですね、すっばらしい(素晴らしい)、パワーポイントを使ったプレゼンをしてくれます。

で、その子たちが、防潮堤のことを私がまぁ、考えてもらいたいといって課題にあげた時に、えー、そして、何人かの子たちは、一緒に東北まで行って、現地を視察をしてくれました。で、やっぱり彼らも「これはおかしい!なんとかしたい!」。

大人の人たちはなかなかアクションに繋がらなかったんですけれども、高校生たちは、自分たちでその、防潮堤が出来て行く様子を写真に撮って、それをアーカイブ化して行きたいということを言ってくれました。そして、自分たちにしか、えー、出来ない、例えば、えー、その推進側の人たちへのインタビューみたいなものも撮りたいと。で、反対してる人たちの意見も撮ってきたいと。で、それを、みんなで共有して、えー、次、もし他の所で震災がまたあって、津波が起こってしまって流されるということがあるかもしれない。その時に、どういう復興をしていくか、と言う時に考える材料にしたい、ということを言ってくれています。

そして、住民、まぁあの、行政側は「説明会をしました。」というふうに言っているんですけれども「住民の合意形成は100パーセント取れています。」という所も実はあったんですけれども、全くあの、事実上はそうではなくて、あの、一部の人たちが合意をまぁ、上手くまとめたというだけの、だったので、住民の合意形成というのは一体何なのか?、あるいは民主主義って何なのか?、根本的に何なんだろうか?ということを考える、自分たちの教材にして行きたいというふうに言ってくれています(※コップの水を飲む)。

■人と違っていていい、もっと自分の考えを言っていいと、女子高校生にアドバイス

その高校生たちに期待をしたいなぁというふうに思っているんですけれども、まぁ先日も、あの、若い高校生・大学生、女の子たちが来て、あの、公邸で、「女性が活躍するためにはどうしたらいいか?」、女性のまぁ生き方だったりとかについて、と働き方とかについて、話をしてくれたんですね。(※コップの水を飲む。)それは、高校生も大学生も、きちんとしたパワーポイントを使って、いろんな調査の結果、グラフだったりとか、ここはこうなっていますっていう、もう素晴らしいような、大人顔負けのプレゼンでした。(※咳き込む)で、若い子たちは、本当に頭が良くて、しゃべる言葉も本当に私も敵わないような、素晴らしいプレゼンだったんですね。

でもその後に、質問がありました。で、えー、自分が正しい、その一人の女の子が「自分が正しいと思っていることを、一生懸命に自分はやっているのにもかかわらず、人から邪魔をされたり、上手くいかないことがあって、とても辛い。」と言って、いきなりポロポロ涙を流したんですね。だから、その、頭は良くて、とてもあの、言葉も上手くて、インターネットやパワーポイントやそういうものをこう、すごく駆使して、もうすごいなぁ(※ビックリのしぐさ)と人を圧倒することは出来るんだけれども、いざそれを、実践に移して行こうとした時に、上手く出来ないと、どうしていいか分からなくなってしまっている。

その、もちろんまだ高校生なので、これからだと思うし、あの、私も高校生の時にそんな立派だったわけでは全然ないので、あの、「カワイイわね!」っていうふうに思ったんですけれども、その、たぶん頭と心のバランスが、こう、取れていない。すごく頭でっかちになってしまっていて…。「出来るはずなのに、いざやろうと思うと、あの、みんなが協力してくれない…」みたいな。あの、一番、でも大事なのは、その、知識も大事だけれども、いかに何かやる時にみんなに協力をしてもらって行くか、やって行くかっていうとこの方がたぶん大事だと思うので、その両面を教育の中で、えー、身に付けてかなくてはいけないんだろうなぁというふうに、その子たちを見ていて、思いました。

あの…、いろんな教育が、あると思うんですけれども、あの、その子たちはですね、あの、もちろんその、あの、いろいろアクションに移していて素晴らしい子たちも沢山いるんですね。でも、あの、そこの場ではいいんですけれども、実際、自分の学校に戻って行くと、『意識高い系』というふうに言われて、自分がそういうところで学んだ、こう、「社会の問題を解決して行くにはどうしたらいいんだろう?」ということを、学校の中では話は出来ない。で、特に女の子のその、そういう年代の子たちっていうのは、もうみんなおんなじで仲良くしていたい、群れていたい、仲間外れになりたくないという思いがすごく強いので、えー、自分が本当に関心があること、社会を良くしたい、世の中のために働きたい、えー、ここがおかしいんじゃないか?(※拳を握って少し突き出すしぐさ)と思っているようなことを学校で言いたいんだけれども、そんなことをみんなに言ったらば、仲間外れにされちゃう、変なやつだと思われちゃう…、だったら言わないでじっとしておいた方がいいじゃないか、と。

でも、私は「それは違うじゃないの?」っていうふうに言いました。あの、そこからやっぱり変えて行かなきゃいけない。勇気を持って、誰かが学校の中で、社会の問題なんかを考えて行く。そして、その周りが一人でも二人でも変わっていって、で、そこからみんなでそういう共通の話を、あ、(※アリガトウ…と小声で園職員に会釈)えー、することが出来るように、えー、なんとか学校を少しずつ変えて、みんなの力で変えて行きましょうよ、という話をしていたんですけれども。

えー、『意識高い系』などという、言葉はあるっていうことも私は知らなかったんですけれども、あの、子供たちは子供たちで、高校生たちは高校生で、いろいろ大変なんだなぁっていうふうに、みんなの話を聞いていて思いました。あの、外国だとたぶん、人と違う方がむしろカッコ良かったりとか、個性的な方が評価されたりすることがあると思うんですけれども、まぁ日本の場合は、あの、『人と一緒が良い』。高校生や子供たちだけではなくて、たぶん社会の中でも、えー、浮かない方がいい、人と一緒の考え方を持っていた方がいい、何か発言したくても「こんなこを言ったら、ちょっと笑われちゃうんじゃないかな、人と違うんじゃないかなと思うと黙ってしまう。で、それでもちろん、社会が上手くまとまっている部分っていうのもあるとは思うし、それが日本の強みでもあったのかもしれないんですけれども、でも私は、これからは、もう少し、日本人であっても自分の考えを堂々と述べて良いんじゃないかなと思っています。

■以前は、安倍家の嫁・政治家の妻として型にはまろうと思っていたが、今は違う

私自身も、安倍家の嫁として、政治家の妻として、えー、まぁ今は総理の妻として、総理夫人という立場として、なるべく、こう、型にはまろう、はまろう、というふうに思って来ました。まぁ、今はあんまり思ってないんですけど、その前の、6年、7年の時までは、思って来ました(※微笑み)。で、人から見ると、「いや、全然そんなことなかった。」と言われるんですけれども、でも私は、なるべく、その、政治家の妻らしく、主人の脚を引っ張らないように、えー、そんなことを思ってたんですけれども。えー、でも、あの、自分の心の中から湧き出る思いみたいなものっていうのは、私は神様からいただいているものだと思っているので、それは、正しいと思ったことはあの、多少人から見て、えー、(おかしい!)と思って、思われてもですね、例えばこの防潮堤問題なんかもそうなんですけれども、堂々と声をあげていこう、というふうに今は思っています。

そうすると、こう、一歩アクションを起こすと、えー何となくこう、手伝ってくれる人が出てきたり、正しい道を進んでいる限りはきっと、どっかで神様が見ていて、えー、助けを、助けの手を差し伸べて下さるんだろうな、というふうに信じて今、私は私なりに進んでいるところなので、まぁ皆さんにもご理解をいただければなぁというふうに思います。

■主人が総理を辞めて自分も悔しくて落ち込んだが、それはそれでありがたい経験だった

私自身も(※壁時計に目をやる)、主人が一回総理を辞めた後に、非常に辛いひとときというか(笑)、えー、数ヶ月間ぐらいはありました。えー、精神的に非常に強いタイプでは全くなくてですね、結構、あの、すぐ、あの、えー、おちこ、落ち込むというか、メソメソしたりとかするんですね。で、まぁ前回の時も、それでも、あの、いろいろインターネットで、えー、自分のことを検索しては(なんでこんなことを書かれなきゃいけないの!)とかって、思っていたんですけれども。主人はもう、「そんなものは見るな!」とか、「見るから落ち込むんだ!」とか言って怒られていたんですが、でもなんか、自分がどういうふうに見られているのか?

で、その、そういうふうに見られているんだったら、そうじゃないように変えて行かなきゃいけない、っていうふうに思って、何となく自分の悪いところを一生懸命探したりとかしていたんですけれども、まぁ一回主人が総理を辞めて、えー、本当にあの、(一生懸命やって来た主人がどうしてこんなに人から批判されなきゃいけないんだ)と思うと、あの、とても悔しい思いがしてですね、まぁ、笑ってる人を見るだけで本当に涙が出るぐらい、落ち込んだ時期がありました。

えー、でもまぁ、それがあって、今、いろいろ幅広く、人の気持ちも少し分かるようになったり、えー、自分は自分でいいんだというふうに思えるように変わったのかなぁっていうふうに思っていて。まぁ、その経験はあの、それはそれで有難かったなというふうに思っています。

■日本の神様は「神道」。籠池園長も神様から天命をいただいている方

で、なぜかですね、私はキリスト教の学校でずっと育ったんですけれども、なぜかその頃から「日本の神様は神道だ。」って思うようになって、えー、伊勢神宮とか、出雲大社とか、まぁいろんな神社巡りをし始めました。えー、別にその、非常にあの、何かそれでえー、スピリチュアル的にどうこうというわけではないんですけれども、本当にただ、あの、神様にですね、「私は何の能力もありませんが、えーどうか、神様に、えー、とって良いように私を使って下さい。」ということをいつも祈り続けてたんですね。で、それがたぶん、今、あの、(神は私をきっとこういうふうに使いたかったんだろうな…)っていうような、あの、感じであのー、自分の意志とは違うところでいろんなことをさせていただいているのかな、というふうに思っています。

えー、籠池園長もご病気をされて、あの、大変でらしたようですけれども、それでもその、本当に大きな天命をえー、やはりあの、神からえー、いただいている方なんだろうなと私も、あの、いつも熱い思いを伺いながら感じています。あの、人は、それぞれ一人一人必ず何かしら使命を持って生まれて来ていて、それをやはり、見つけて、全うして行くのが人生なんだと思っています。

■子供はお母さんを選んで生まれてきている

あの、『神様との約束』という映画があるんですけれども、それはあの、子供の教育をしている人と、あと産婦人科医が中心になったドキュメンタリーみたいな映画なんですけれども、子供たちがこう話しているのを聞いていると、「生まれる前、僕たちは私たちは、宙に浮かんでいたんだ。」と、で、子供たちはそれをまぁ、本当かどうかは分からないですけど、多くの子供たちが同じような話しをしているんですね。で、「浮かんでいて、そこに大っきいスクリーンがあって、で、そこにママの顔が映ったから、僕はこの人がいい!って言って、選んでママのお腹に入ったんだ。」ということを沢山の方が、沢山の子供たちが話しているんですね。そこにね、パパの言葉が出て来ないので、パパはどっから選ばれてるのかちょっと良く分からないんですけど!(※もの凄い楽しそうに笑う)。みんなママを選んで(※人差し指を掲げ振りながら)生まれて来ているんですね。

で、その、どんな子供であっても、あの、普通子供は親は選べないんだっていうふうに言いますけれども、でもきっと私は、どっかでやはり子供たちはお母さんを選んで来ているんだろうなぁっていうふうに思って、えー、親子関係が上手く行っていない子供たちには、まぁ親御さんには、その映画を見てもらって、えー、自分はこの子に選んで来てもらったんだというふうに思ってもらいたいなぁというふうに思っています。

■この国を誇りに思える子供たちを育てるために、瑞穂の国記念小学院を応援したい

え~、そろそろ時間が来ましたけれども、この瑞穂の国、記念、えー、小学校、来年、再来年、開校されるということで、本当にこの、あの、「国に生まれて良かった」というふうに思えるようなですね、あの、国にしていくために、主人も政治家として総理大臣としてこれからも頑張って行くと思いますし、えーまた、この学校においてもやはり、えー、国に、この日本の国を誇りに思えるような、えー「いい国に生まれて良かったな」と、この国の良さをどんどん、この、えー、ずうっと繋げて行かなくてはいけないというふうに思えるような子供たち、そしてそれを、えーまた、この国だけのことにとどまらずに、世界中の人たちが平和になるために、えー、自分たちの力を使いたいと思えるような子供たちに育って行ってもらうために、私も、あの、応援をして行きたいと思いますので、どうか籠池園長ご夫妻にはお元気でですね(笑)、頑張っていただきたいなぁと思います(※満面の笑み)。今日はお招きを頂きまして、有難うございました。

(※深く一礼後、コップの水を飲み、再び一礼。)

(※保護者一同、拍手。)

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